鮭のような生き方
「酒」ではなく「鮭」ですよ。
最近のことです。
50代もあと数年でおしまいという歳になって、
身体のあちこちが痛んだり、壊れたり、
本当にひどいことになってきました。
若い時は、年配の人が辛そうにしている姿や、
腰や肩が痛いと言うのを
まるで人ごとのように聞いていました。
その頃の自分といえば、
いくら歩いても疲れることはなかったし、
草原に行けば自然に走り回ってしまうし、
まるで、自分の足に羽が生えているように思えたものです。
あぁ情けない。
でもこれが現実です。
人は老いるし、
老いると、身体のあちこちが痛むものなのです。
身体が弱ると、
人間は気持ちが弱くなります。
少しネガティブなことを考えがちになるし、
少し投げやりな精神状態になります。
こんなにあちこちが痛くては、
子育てから解放されても田舎で農民生活なんか出来ないのでは、とか
そもそも
子育てから解放されるまで身体がもつのかな、とか
それじゃぁ、俺の人生って一体何だったのか、とか…
ちょっと空しい気持ち。
生きる意味って、
考えてもわかるものではありません。
考えたところでどうなるものでもありません。
神様はすべてを知っておられるとか、
どこかで誰かが見てくれているから、まっすぐ生きようとか、
目に見えないものは、やはり心から信じることはできませんよね。
本当にそうであればいいけど、
単なる思い過ごしかもしれない。
一応カトリック信者の自分としては身もふたもない言い方なのですが、
信仰の力は、しばしばぐらつくものなのです。
そんな自分が、
最近 鮭の生き方を思うようになりました。
鮭は大海原に出てゆき、
成魚になってから、生まれ故郷の川に戻り、
浅い川を必死になって上流まで遡って、
そこで
壮絶な子作りを繰り広げたあげく、
精も根も尽き果てて流されてゆきます。
川を一心不乱に遡ってゆく姿、
必死に産卵をする、その物凄い形相、
そして死んで流されてゆく姿。
その姿を見ていると、
一体この鮭たちは何のためにここまで頑張っているのだろう、
こんな生き方のどこに価値があるのだろう、
こんなことをするために、どうしてここまで帰ってこなくてはならないのだろうと、
哀しい気持ちになります。
でも、
恐らく鮭は何も考えていない。
ただ本能のおもむくままに生き、死んでゆくのでしょう。
生き物とはそういうものかもしれないと、
思うのです。
人間は「考える葦」ですが、
一個の生き物です。
生きているものということだけでみれば、
動物たちと何もかわらない。
木々たちと何もかわらない。
そんな存在です。
自分の人生の意義がどうであったかとか、
お金を貯めて老後は楽をしようとか、
楽しい思い出、
悲しい思い出。
そんなことよりも、もっと根源的な、
生まれて死んでゆく生き物としての存在を思えば、
鮭の生き方は決して哀しいものではない。
その時の一瞬を、
まさに生き生きと生きている姿なのではないかと、
そんな気がします。
最近のことです。
50代もあと数年でおしまいという歳になって、
身体のあちこちが痛んだり、壊れたり、
本当にひどいことになってきました。
若い時は、年配の人が辛そうにしている姿や、
腰や肩が痛いと言うのを
まるで人ごとのように聞いていました。
その頃の自分といえば、
いくら歩いても疲れることはなかったし、
草原に行けば自然に走り回ってしまうし、
まるで、自分の足に羽が生えているように思えたものです。
あぁ情けない。
でもこれが現実です。
人は老いるし、
老いると、身体のあちこちが痛むものなのです。
身体が弱ると、
人間は気持ちが弱くなります。
少しネガティブなことを考えがちになるし、
少し投げやりな精神状態になります。
こんなにあちこちが痛くては、
子育てから解放されても田舎で農民生活なんか出来ないのでは、とか
そもそも
子育てから解放されるまで身体がもつのかな、とか
それじゃぁ、俺の人生って一体何だったのか、とか…
ちょっと空しい気持ち。
生きる意味って、
考えてもわかるものではありません。
考えたところでどうなるものでもありません。
神様はすべてを知っておられるとか、
どこかで誰かが見てくれているから、まっすぐ生きようとか、
目に見えないものは、やはり心から信じることはできませんよね。
本当にそうであればいいけど、
単なる思い過ごしかもしれない。
一応カトリック信者の自分としては身もふたもない言い方なのですが、
信仰の力は、しばしばぐらつくものなのです。
そんな自分が、
最近 鮭の生き方を思うようになりました。
鮭は大海原に出てゆき、
成魚になってから、生まれ故郷の川に戻り、
浅い川を必死になって上流まで遡って、
そこで
壮絶な子作りを繰り広げたあげく、
精も根も尽き果てて流されてゆきます。
川を一心不乱に遡ってゆく姿、
必死に産卵をする、その物凄い形相、
そして死んで流されてゆく姿。
その姿を見ていると、
一体この鮭たちは何のためにここまで頑張っているのだろう、
こんな生き方のどこに価値があるのだろう、
こんなことをするために、どうしてここまで帰ってこなくてはならないのだろうと、
哀しい気持ちになります。
でも、
恐らく鮭は何も考えていない。
ただ本能のおもむくままに生き、死んでゆくのでしょう。
生き物とはそういうものかもしれないと、
思うのです。
人間は「考える葦」ですが、
一個の生き物です。
生きているものということだけでみれば、
動物たちと何もかわらない。
木々たちと何もかわらない。
そんな存在です。
自分の人生の意義がどうであったかとか、
お金を貯めて老後は楽をしようとか、
楽しい思い出、
悲しい思い出。
そんなことよりも、もっと根源的な、
生まれて死んでゆく生き物としての存在を思えば、
鮭の生き方は決して哀しいものではない。
その時の一瞬を、
まさに生き生きと生きている姿なのではないかと、
そんな気がします。
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