キャパ

昔はちっとも好きではなかったのですが、
NHKの大河ドラマがとても楽しく思えるようになりました。
歳をとると歴史が好きになるのでしょうか、
読む本も歴史小説がかなり多くなりました。

今年の「西郷どん」も配役が良く、なんだかとても楽しみです。
今更ながら、
歴史に名を遺した人々の偉大さ、
昔の日本人の精神性の豊かさ、
教育の素晴らしさなど、
学ぶことが多くて、やめられない。
たとえそれが歴史の一側面であったとしても、
そこから学ぶことはとても多いと思うのです。

龍馬伝の福山雅治も恰好良かったし、
真田丸の堺 雅人も良かった。
軍師官兵衛の岡田准一も恰好良かったなぁ。

全然話がかわりますが、黒田官兵衛は出家した後に如水円清と名乗ったそうです。
私の母校の卒業生会は渋沢栄一によって「如水会」と名付けられ、多くの卒業生の心を集めています。

その意味は、「君子の交わりは淡きこと水のごとし」 とのこと。

最初にこの「如水」の意味を読んだ時、私には言葉の意味が腑に落ちませんでした。
交友とは肝胆相照らす深い付き合いをした友が多くいてこそ、その人物の器が見えるものと思っていたからです。
私は若いころチームスポーツであるサッカーをしていたので、
泥臭くて自他の区別もないチームメートとの交わりが身についていたのでしょうか。
淡い付き合いのどこに「君子」という人々の価値があるのか、
本当にピンときませんでした。

しかし、50歳を過ぎた頃からでしょうか。
徐々に「如水」の交友の意義が見えてきたように感じています。
同じ時を過ごし、気心が知れた友人でも、
時が経ち、それぞれの事情のなかで生きてゆく時、
昔と同じ気持ちでお互いを思うことはできなくなってきます。
それは寂しいことですが、
仕方ないこと、当たり前のことです。
昔話に花は咲いても、年月で築き上げた自分の芯はそれぞれに異なります。
表面的な仲の良さは、かえって別れたあとの虚しさを助長します。
そんな経験、ありませんか?

白洲次郎の話を読んでいた時、
彼が若い時代を共に過ごしたイギリス人貴族との再会をした時の逸話が書いてありました。
お互いにとても心待ちにしていた再会だったそうですが、
二人は一緒の車に乗っている間、これという会話もせず、
別れる時にも、また必ず会おうなどと言うこともなく、
ごくあっさりと別れて、お互いに振り向きもせずに去ったとのことです。
それは、二人の心が離れてしまったということではなく、
深い信頼関係と、独立した大人の感性を持った二人だからこその、
まさに水の如き邂逅だったのでしょう。

私も、最近ではできるだけ友人とはさっぱりとした付き合いをしたいと思うようになりました。
心の通い合う親友でも、べたべたとする必要はまったくなく、
何年かに一度会ってお互いの目を見れば、それでよい。

人は、自分ひとりでは生きてゆけぬものですが、
しかし生まれる時はひとり、死ぬときもひとりの孤独な存在です。
歳を重ねて自らを知り、自らの行く末を思う時、
ひとりである自己を見つめるようになるのでしょうか。

仲が良くても人は人、自分は自分。
それは決して寂しい考え方ではなく、
現実を誠実に見極め、そのなかに孤高に生きる高邁な精神であると思います。

私の大好きな阿佐ヶ谷の高架下に、最近新しいお店がいくつかできました。
そのひとつのピザ屋さんに入ったら、まちライブラリーという図書館になっていました。
自分の本をそこに寄付して、喫茶をしながらみんなで楽しむ、貸し出しも可という、
とても素敵なシステムです。

なにげなく手にしたのが 「キャパその死」 という本でした。
写真家のロバート・キャパの本ですね。
パラパラと冒頭を読んでいたら、
彼の性格を描くこんなくだりがありました。

キャパには世界中に何百人もの友達がいて、
どこかの街に行けば、そこで沢山の友達を集めてパーティーをする。
でも一度離れてしまえば何の音沙汰もなく、
手紙も電話もせず、返事も出さないのだそうです。
それでも彼と再会すれば、彼は最高の笑顔で友達を迎え、
楽しい時間を惜しみなく過ごすのです。
曰く、
キャパとの繋がりを絶やさぬようにする努力は、
まるで茶漉しに水を溜めておく努力をするようなものである、と。

友達との頻繁な接触はなくても、
そこに
なにか暖かいものが通い続けていれば、
交友関係は続いてゆくものなのだと思います。
そんなキャパの生き方は、一種水の如きであり、
ちょっと素敵です。

何だか、毎年一生懸命年賀状を書いている自分が、
少し虚しくなりました。

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